2025/4/9

銀座教会と神社の共通点

こんにちは!Ffのえむずです。
 
変態えむず。今週も銀座教会の夕礼拝に行きました。
 
聖餐式(せいさんしき)という洗礼を受けてないと
 
参加できない儀式が月1回ぐらいあって、
 
えむずは聖餐式がある日は、祭壇に対して垂直に配置された椅子に座る。
 
そこに座ると礼拝所全体が見渡せるので面白い。
 
そこは、キリスト教初心者用の席らしく讃美歌集と聖書が置いてある。
 
その聖書にしおりが挟まっている。
 
しおりに
 
「どんなことでも、思い煩う(わずらう)のはやめなさい。
 
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
 
求めているものを神に打ち明けなさい。」
 
フィリピの信徒への手紙4章6節
 
とあった。
 
何?ここは神社か?!
 
私は週3日ぐらい神社でお参りするのだが
 
「神様、いつもありがとうございます。いつもありがとうございます。
 
どうかどうかお導き下さい。どうかお導きください。
 
(このあと、時々具体的な願い事をするときもある)
 
ウクライナとガザの戦争が早く終わりますように。」
 
と声に出して言っている。願っている。すがっている。手を合わせる。
 
誰もいないし、静かだし、形式もない。1分ぐらい。
 
だからお願いしやすいのだ。
 
神木にも手を合わせる。内容は同じ。
 
 
 
 
 
銀座教会の夕礼拝はそれはそれは大忙し。
 
立ったり、座ったり、歌ったり、読んだり、牧師の祈りを聞いたり、、、、。
 
だから無心になってしまう。
 
神様に願いを言ったりする暇もない。
 
自分のためにやってるというよりも神様のためにやってる感じだ。
 
ある意味、神様って本当にいるのかな?なんて疑問をはさませないのだ。
 
圧倒的な神様がいて、それに付き従う感じ。
 
それが好きな人もいれば嫌いな人もいるだろう。
 
 
 
 
もし、日本の宗教がキリスト教だけだったら、私は嫌いになってたかもしれない
 
日本は一神教ではないところがいいのだ。本当に日本人でよかった。
 
戦後の日本人でよかった?!
 
 
 
こんなしおりをはさむなんて、イエス様に願い事をしてもいいんだ。
 
本当はもっと身近な存在なんだ。
 
礼拝所を離れるとそんなことも思うが、
 
礼拝所に入れば無心になる。
 
圧倒的神様を全身に浴びる。
 
神社の神様のように気軽に話しかけたりしない。
 
そういう神様も必要なのかもしれない。